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  • 執筆者の写真genovese

「ブラックフェイス」表現は差別に当たらないと断言する。

こんにちは。ジェノベーゼです。



少し前にニュースで話題になったケイティー・ペリーの靴。そしてグッチのセーター。これらは黒い顔をした人間をモチーフにしたファッションデザインですが、「黒人差別に当たる」として一時期世間を騒がせました。


また、数年前の年末の某バラエティ番組ではエディー・マーフィーが演じた映画のキャラクターを日本人お笑い芸人が演じたことにより、これも黒人差別に当たるとして世界中でニュースになりましたよね。



これを受けて、私は感じました。


『表現の自由を奪われている。』

そして、『過去にとらわれすぎていて逆に差別ではないのか?』ということです。



今回はこの「ブラックフェイス」に関して私の一意見を述べさせていただきます。






ブラックフェイスとは


ブラックフェイスとはそもそも何なのか。ウィキペディア先生に尋ねてみると、どうやら19世紀に流行したアメリカのエンターテイメントからスタートしたらしいです。


アメリカの舞台演目として白人が黒人の役を演じた際に顔に黒い顔料を塗ったこと、またその塗料のことを「ブラックフェイス」と呼び、このエンターテイメント文化はアメリカにとどまらず、イギリスでも人気を博し、黒人文化を世界中に広めました。


元々はミンストレル・ショーと呼び、これらは黒人を風刺しているもの。この後、アメリカでは黒人やインディアンなどの有色人種を差別するというくらい時代を迎え、1964年に公民権法が施行され、それまでの人種差別文化に幕を下ろし、ミンストレル・ショーも大衆性を失ったと言います。



そこから「ブラックフェイス」はタブー視されるようになる…というような歴史を辿りますが、詳しく知りたい方はウィキペディア先生にお尋ねください。






グッチとケイティー・ペリーのデザイン観察


ここで件のデザインを見てみましょう。


↑グッチのセーター


↑ケイティ・ペリーの靴



率直な感想を述べるならば「いいじゃん」と私は思います。


セータなんて、ハイネックの部分顔まで被って、じゃあ口の部分を開けて口にしちゃおうよ!という「だけ」のデザイン。


靴だって、これ顔つけたらかっこいいんじゃないかな?という「だけ」のデザインです。



もちろん双方、もっと私より深い考えや違う考えがあってデザインをしていると思いますが、おそらくそのくらいの考えで作ったのではないでしょうか。



要するにこれはただ「人間」をモチーフにしたデザインでしかなく、それ以上でもそれ以下でもないと私は考えます。






消費者が過剰に反応しすぎ


と、私は考えますね。


商業は消費者を対象にした商売なので、消費者の意見や感じ方に関して真摯に考え、ビジネス活動の中で答えていかなくてはなりません。


しかし、今回はあまりにも消費者が過剰に反応しすぎであると考えます。



今回のデザインの問題点はなんだったのでしょうか。


それは「黒い」ということ。そして「人の顔」であったということです。



考えみてください。

彼ら彼女らのデザインしたカラーバリエーションが「白」だったら?


きっとここまで話題にならなかったのではないでしょうか。


「黒い人だから」ダメなんです。かつて差別の被害者だった黒人をモチーフとして連想させるからダメなんです。



おかしくはありませんか?

白ならばよくて、黒だからダメ。


これこそ「人種」差別ではないでしょうか。






表層をたどるな


不謹慎厨、という言葉がありますね。


災害時などにバラエティ番組などを放映すると「被災した人のことを考えろ!」とか、「不謹慎だろ!」と過剰に主張する人たちのことを指します。(例えがあまりうまくありませんでしたね。)



何でもかんでも「不謹慎」という言葉で攻撃をするこの風潮は表現の自由、そして芸術、エンターテイメントの進歩を阻むと私は強く考えます。



これだけ世の中、個人を尊重し、多様性を認めるという考えが色待っている中、過去に縛られて「それはダメだ」「あれはダメだ」ということは進歩を止めます。



自由に発想して、今までのファッションという概念をちょっとした奇抜な発想で新たな可能性を生み出した人と、


それはある一定の歴史上タブーとされてきたからダメだ、と自身の考えではなく歴史という事実を盾にして批判をする人。



果たしてどちらがこれからの世界を変える、前進する人だと言えるでしょうか。






過去を変えていくには壊さなければならない。


いつまで過去に縛られるのか。過去の悪しき歴史は「学び」とするのであって、拘束するための「鎖」にするものではありません。


過去は事実でしかないのです。それが正しい価値観というわけではありません。



今は技術の進歩でより世界の人たちが近い距離になり、よりお互いを理解できるようになってきています。よりお互いのパーソナリティーや価値観を知ることができる世界が実現しつつあります。



それを、「黒いから」「昔、悪しき歴史があったから」なんて理由で自分の表現したいものが抑圧されてしまってはいけないのです。

(もちろん、悪意のある表現はいけません。)


古い考えに縛られてはいけません。表面的なことだけ見てはいけません。

本質を、抽象的に俯瞰的に見極めなくてはなりません。



今回の件で限って言うならば、一番見た目で判断しているのは、批判をしている人であると私は断言できます。一番ステレオタイプなのは誰でしょうか。






まとめ


うまく結論を言えなかったのですが…。



黒人差別だ!と発言している人たちがどれだけ自分の中の本心でその発言をしているのか疑問に感じたため、今回この記事を、拙いなりにまとめました。


過去ダメだったこと、悪い歴史として教訓にはすべき事実であることには間違いのですが、そのことをさも自分の考えのように引き合いに出すのは違うかと思います。



つまりは、相手の意図を知り、過去の価値観に縛られないで自分の意思と多角的な観点で物事を判断・発言しましょう、と言うことです。




以上。たまにこのようなこともブログにまとめていきますので、ご意見などぶつけ会えたらいいかなと考えます。

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